坪井の森と桑納川の記憶

2016-12-10

小学生のころ、夏になると日大の裏手に広がる雑木林までよく虫取りに行っていました。
1970年代のお話です。

船橋東図書館の通りを東に進み習志野台中の南側を通過、日大理工学部の体育館にさしかかる。
そのあたりで舗装路は終わり、土のあぜ道の下り坂に。
坂を下ると川が流れていて、石の板を渡したような手すりもないような橋があり、川の両側は南北に長い田んぼが横たわる。

お目当ての雑木林は田んぼの向こう側のあぜ道沿い。
カブトムシ、クワガタ、カミキリ。昆虫の王様たちに出会えるのだ。

田んぼと雑木林の間のあぜ道を北上しながら木の幹を観察していくと樹液が出ているところにお目当ての虫たちが群がっているわけです。
まぁ、カナブンやコガネムシといったザコキャラしかいないこともあるし、時にはスズメバチが樹液を吸ってたこともありましたが。
また、足元の草むらにはムシはムシでもとっても危険なマムシが潜んでいることも。

ちょっとどきどきしながらも結局は行くんです。
行かない、という選択肢は少年には、なかった。

冒険の見返りにミヤマクワガタやオオクワガタ、ミヤマカミキリ、ヤマトタマムシなどを見つけたときのドキドキ感は長い人生の中でもそうそう味わえるものでは、なかった。

そこまでレアでなくとも、カブトムシやノコギリクワガタ、コクワガタでも嬉しかったなぁ。

そんな夏夢の楽園、"坪井の森"。
記憶をたよりにGoogleMap上に書き足してみました。

坪井の森

やや雑ですが、さんざん通っていたエリアですので、位置関係はそこそこ合っているかと。

いまや坪井のこのエリアはハイセンスな戸建てが林立し、スーパーやホームセンターが通り沿いに立ち並ぶ"街"ですが、当時は鬱蒼とした木々と田畑に囲まれた自然と触れ合える場所でした。

当時は東葉高速も走ってなかったし、坪井近隣公園も坪井東という町名もなかったし、坪井中さえなかった。
坪井小がようやっとできたころだった・・。

探索の中心は田んぼの東側のあぜ道でした。西側にはほとんど道がなかったので。
いちど西側(坪井中の東側)にも分け入ってみたことがあったけど、業者らしき男がはしごを木にかけて大量にカブトムシを捕獲しているところに遭遇し、ひどく怒られたので避けるようになってしまいました。

東側のあぜ道を北上し、現在の坪井近隣公園のあたりまでいくと、雑木林が終わり視界が開けます。
その先に現れる橋を渡り、坪井町の集落に出て習志野台に戻る、というのが定番のコースでした。

橋の近くには「一級河川 桑納川(かんのうがわ)」と記された立て看板があったのを覚えています。

この桑納川。思えば最初に日大の体育館の脇を下ったところが一級河川の源流付近だったことになります。
現在はマンションが立ち並んでいる習志野台8丁目のあたりが源流です。

でも源流付近でもそれなりに水量があったと記憶しています。

そんなに深くはないけど、もし自転車が落ちたらほぼ水没するだろうなっていう感覚。
土手が斜面で飛びにくいこともあるけど、小学生のジャンプ力では川を飛び越えられないだろうなっていう感触。
子供目線なので広く感じたのかも知れませんが、川幅は2m程度はあったように思います。

現在はこのあたりは坪井川と呼ぶようです。
坪井近隣公園から先、当時看板があったところから桑納川となり、八王子神社のあたりで船橋アリーナのほうから流れてきた駒込川と合流、そのすぐ先で高根台から流れてきた木戸川と合流し、印旛沼の治水のために作られた新川(印旛放水路)へ流れ着きます。

現在ワタクシは松が丘へと移り住んでおり、最寄の川は木戸川になります。
木戸川も、大穴南から来る大穴川、三咲駅近くから来る三咲川、楠が山と神保町の境あたりから来る神保川と合流しながら桑納川へと注ぎます。

いずれも緩やかな川で、流域に田んぼが拡がっているのが特徴です。
坪井はすっかり街になってしまいましたが、これらの川を散策すれば、いまでもかつての坪井の森と似たような景色に出逢えるのではないかと考えているところです。



#追加コメントは移転先のほうへお願いいたします。m(__)m
 

国際製粉 千葉工場

2016年10月8日

以前、新京成の車窓から見えていた、木造なのに5階建てもの高さのこげ茶色の要塞のような建物について「昔日の新京成」という記事の中で書きました。

たくさんの方からコメントをいただき、それは「国際製粉 千葉工場」だったことが判明。
わずか9年の操業ののち、22年もの期間を廃屋として怪しく君臨していた孤高の楼閣。

それぞれの方々の心にさまざまな記憶として刻まれていることを嬉しく感じました。

さらに、小島 明さんから国際製粉の画像のご提供をいただけることになりました。
以下に謹んで掲載させていただきます。みなさん、どうぞ懐かしんでください!

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1977年12月18日前原の国際製粉建物_01 撮影:小島豊徳

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1977年12月18日前原の国際製粉建物_02 撮影:小島豊徳

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1977年12月18日前原の国際製粉建物_03 撮影:小島豊徳

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昭和40年ごろの船橋市地図・国際製粉


線路にたやすく入れてしまう様子や当時の主流だったクーペなフォルムの自動車もはっきり写ってますね!

あらためまして、小島 明さん、ありがとうございました!



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写真展「むかしの習志野台 子供達のいる風景」

2011年5月27日

いつもフレッシュなコメントをお寄せいただいている、当ブログでは常連さんの白井さんから教えていただいた写真展「むかしの習志野台 子供達のいる風景」を観たくて船橋アリーナに行ってきました。

写真展「むかしの習志野台 子供達のいる風景」船橋アリーナは9:00〜21:00まで開いていますので、仕事帰りでもちょっと見に行くことができます。

とはいえ展示は5月31日(火)までですので、気になる方はお早めに。

場所は船橋市総合体育館の展示ホール。
外階段で2階に上がり、左側の建物の自動ドアを入ると奥の真正面にあります。

ワタクシ、子供の夏休みの宿題などで「ふなばし物語」や「船橋のあゆみ」などの書籍には目を通したことがありますが、今回展示の写真パネル18点はそれらにはない価値があると感じました。

習志野台として造成され団地が立ち並ぶ前の、まさに「入植」と言える時代に生きる子供たちの姿が捉えられていました。
そしてその背後に写る広大な風景。

中でもワタクシの目を引いたのは、高根木戸駅のすぐ横にイチゴ畑があった、という1枚。

ワタクシの記憶の中でいちばん古い高根木戸は、西側にたしかレコード屋がありました。
東側にはラーメン屋、そしてその後ろは囲いがされ、ジャスコの建設がはじまろうとしていました。

そんな記憶をはるかに超える古い映像です。
先の書籍ではありませんが、高根木戸バス通り周辺の昔の写真はどこかで見たことがありましたので、それとつながった感じがしました。
ほんとうに農村だったんだなぁ、と実感。

規模は小さいですが、きたなら周辺に住んでいる&住んでいた方なら楽しめる写真展だと思います。

 

船橋東消防署・今昔


北習志野駅からほど近い、南東およそ100mのところにある消防署です。

船橋東消防署

現在は上の写真のように、ごく普通の消防署ですが、かつては空港の管制塔のような立派な火の見やぐらが特徴的な建物でした。

第一小のときに、社会科見学で火の見やぐらに登ったこともありました。
ここから周囲を見渡し、火災をいち早く発見するんです。

そして2階には消防隊員の仮眠室があって、出動時は1階につながる鉄棒につかまってするするっと下に降りるんだ、という説明を聞き、感心したことを憶えています。

船橋東消防署

この写真はおよそ10年ほど前、2001年初頭に撮影したものです。
展望室は地上7階建ての高さにあったようです。
5階のあたりには船橋市のロゴマークが掲げられています。

なぜ火の見やぐらはなくなってしまったのでしょうか。

考えつくところでは、耐震性に問題があったとか、周辺の建築物の高層化により役に立たなくなったなどが考えられます。

でも、松戸市にある中央消防署にも似たような火の見やぐらがあります。
おそらく似たような時期に建設されたものと思われますが、そちらはいまも健在です。

周辺にはまばらながら、きたならよりも高層なマンションが建っています。

しかし、船橋東消防署の場合は、東に5階建て中心の習志野台団地が大きく広がり、北はエール商店街の上の7階建て市街地住宅が隣接し視界を遮っているなど、建設当初からロケーション的に失敗していたという側面が大きかったのかも知れません。


そもそも、火の見やぐらに人を配置して監視に当たらせるというシステムが時代にマッチしなくなったこともあると思います。

火事と喧嘩は江戸の花、という時代は終わり、鉄筋コンクリート造が増え、木造であっても難燃素材を多用する時代、さらには電化や安全装置付きのガス器具の整備もあり、もはや見張りを立てなければならないほど火災は発生しないわけで。

電話をはじめとした通信インフラも整備され、目視で発見するより前に通報が入る確率のほうが遥かに高いと思われます。

かっこよかったけど、所詮は消え去る運命だった、ということなんでしょうね。
 

写真が語る船橋の百年@船橋市郷土資料館

2010年3月20日

kyoudo03.jpg薬園台にある船橋市郷土資料館で開催されている、小企画展「写真が語る船橋の百年」を見に行ってきました。

ちょうど、3月16日からはじまった「船橋のアルバム 変わりゆく街の記録」の展示写真もあわせて見ることができました。
(こちらは6月6日まで)

先日コメントをいただき話題になった、「国際製粉千葉工場」の一部も掲載されていました。

津田沼のバラック商店街の写真や、サンポー建設中の写真もありました。
バラック商店街がなくなる前にパルコができていたという、衝撃?の事実も。

あと、船橋駅北口の再開発前の写真もなかなか衝撃的でした。
そうそう、そういえば少し離れたところにボーリング場がある程度で、な〜んにもなかったんですよね、北口は。

そのボーリング場に連れて行ってくれた、親父の背中がちょっと寂しそうだったことなどもあわせて思い出し、懐かしく拝見してきました。

また、西船橋に接続する東西線の建設中の写真や、高架になる前の船橋駅の航空写真など、「ほぉ〜」と唸りながら観覧しました。

写真の黄色いパンフレットには、船橋百年の年表が詳しく記載されていますので、これをもらってくるだけでも価値があると思います。

ここの歴史の記事を見て懐かしさを感じている方は、ぜひとも足を運んでみることをお勧めします。

船橋市郷土資料館は入館無料・駐車場無料。
駐車場は成田街道側から入ります。前面道路はよく渋滞しています。
間口がやや狭いので、注意して進入してください。
薬園台駅方面から進行してくるといいでしょう。
3月28日までですよ〜。(^^)/
 

昔日の新京成


ワタクシがはじめて新京成に乗ったのは、小学校2年生の頃、おそらく昭和46年(1971年)だと思います。
その当時は北習志野〜京成津田沼の範囲しか乗車していませんでしたが、印象深く心に残っています。

習志野駅脇のイイダ家具を過ぎると見えてくる、畑の向こうの薬円台ボウル。
以前は薬園台の駅は踏切の南側でしたね。
薬園台を過ぎると鉄橋が楽しみで、前原を過ぎると木造4階建のこげ茶のあやしい建物に釘付け。
それを過ぎると大きなカーブを描いて車輪を軋ませながら新津田沼にへたり込む。
・・あの木造なのに4階建の建物、なんだったかご存知の方はおられるでしょうか。
当時、今は亡き親父に聞いたら軍だとか自衛隊だとか言ってましたが・・。
いつか歩いて見に行ってやる、と子供ながらに思いましたが実現しないうちになくなってしまいました。
地図を見ると、たぶん前原東4-1のマンションが建っているあたりだったかと思います。

その頃の新京成の電車は京成払い下げの100形とか200形に改良を施した車両を使っていました。
おでこに大き目の丸いライトをひとつ付け、人がめくる行き先表示板を名札のように付けていました。

sk_100kei.jpg


強烈なのは、モーター音がすごく唸るんです。
現在の電子制御のパルスモーターとは大違いの、超アナログな大型単発モーターといった感じ。
うぅうー(200Hzくらい?)からスタートして音程を上げながら加速し、40秒ほどでうーっ!!(500Hzくらい?)っと唸りを上げると、ふっとモーター音がなくなり、あとは惰性でカタンカタンコトン、カタンコトンコトンと走るわけです。
そのおんぼろ感が子供のワタクシには心地良かったです。

おんぼろ感といえば、新津田沼−京成津田沼間で発生することが多かったのですが、カーブで電車が左右に揺れると、吊革が網棚にカン!カン!当たってたんです。これは恐怖感とかではなく、カルチャーショックっぽい感じでした。
この現象は大人になってもたま〜に発生してましたんで、いつか録音してやろう、と思っていましたが、これも実現せず、です。
一度デンスケを持って乗ったことはあったんですが、そのときはカンカン言ってくれませんでした。

さて、小学校も高学年くらいになると、たまには松戸方面にも出かける機会がありました。
両親に高根公団の商店街、初富の梨狩り、五香〜常盤平の花見などに連れていってもらいました。

上りは高根公団止まりと鎌ヶ谷大仏止まりが7割くらいで、くぬぎ山行きや松戸行きは少なかったです。
当時初富から先は単線でしたから、そういう運行だったのでしょう。
いまは9割以上が松戸行きで、車両の進化もあって30分くらいで松戸まで行けますが、当時は運よく松戸行きが来ても45分、接続が悪いと1時間かかっていましたので、松戸は遠いと感じていました。
下りも新津田沼止まりが今より多かったですね。だいたい半分が京成津田沼まで行く感じでした。

松戸方面では、初富−北初富間にも大きなカーブがあって、それを過ぎると鉄橋があって、下を単線の線路が走っている。これも興味深かったですね。そう、東武野田線です。
いまはどちらも複線化され、北総線も通り、新鎌ヶ谷駅ができて乗り換えができるようになり、周囲に街もできつつありますが、当時は農村のはずれのような印象だっただけに、時代の移り変わりを感じますね。

そういえば高学年の頃だったと思いますが、北総線が北初富−小室
間で暫定開通して、北初富から新京成に乗り入れて松戸まで行ってたことがありました。八柱に武蔵野線が開通したのもこのころだったかな。

それでも儲かってる新京成、なんだかすごい電車です。


#勘違い、思い違い、記憶違いもあるかと思います。当時をご存知の方がご覧になられましたら、ぜひとも補足・訂正などコメントいただけますよう。m(__)m

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昔日の津田沼

2008年11月20日

ワタクシがはじめて津田沼の地に降り立ったのは、小学校2年生の頃、おそらく昭和46年(1971年)だと思います。

その頃の津田沼は今と大違いでなんにもない町でした。
国鉄津田沼駅の南側は千葉工大のみで、あとは畑と空き地だけだったと思います。

子供だったのでよく憶えていませんが、ちょうど駅舎の改装を含めた北口の再開発中だったかも知れません。
想像では、快速線を通すためのホームの拡充と北側への拡幅、それに伴う近隣商店の立ち退き・移転なども含んだ大規模工事をしていたのではないかと思います。

現在の北口は立派なロータリーの上にペデストリアンデッキがかけられていますが、当時その辺りはバラック造りの店舗が20件ほど立ち並んでいました。
子供なので、ただ汚くて埃っぽいとしか映りませんでしたが。
ただ、バラックの右側、そう、現在本屋さんが入っているビルのあたりには5〜6件の店舗がアーケードを構成していました。(パン屋?、和菓子屋?、床屋?、本屋?、記憶に自信なし!)
おそらくその道路は現在の三菱東京UFJ銀行の脇道そして新京成の踏切へとまっすぐ向かっていたのではないか、と思える角度でした。
そしてその店舗の端には、昔の町並みによくある商店街入口のアーチがかかっていて、アーチを抜けると右方向に新京成の新津田沼駅が見えました。

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昭和49年(1974年)の国鉄津田沼駅周辺 : 国土交通省国土計画局より
ロータリーがごちゃごちゃしている。新京成方向に緑のアーケード屋根が見える。


新津田沼駅は過去に何度か移転を繰り返したそうですが、その当時すでに現在の場所にありました。
ありましたが、今のように大型店に囲まれ立派に見える駅ではなく、バラックに近い駅舎でした。
ただ、新京成の他の駅にはない、地下通路を持った駅でした。
(あ、いまは新鎌ヶ谷駅だけ、ですね。やがてなくなりそうですが。)

ホームそのものは現在もほぼそのまま使われていますが、下りホームの階段は2階ではなく地下へ向かい、上りホーム側にあった改札を通って外に出ていました。
昭和50年代後半くらいになると思いますが、イトーヨーカドーができるにあたって2階駅舎に変更され、地下通路は埋められました。

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昭和49年(1974年)の新京成電鉄 新津田沼駅周辺 : 国土交通省国土計画局より
現在のヨーカドーの位置に駅舎がある。区画整理がはじまったがまだ空地が多い。


話を昭和46年に戻しましょう。
アーチを抜け、新京成の線路近くを新津田沼駅に向かうと、右手には鉄道の操車場のようなものがあり、引込み線が延びていました。
現在のミーナ(元丸井)のあたりには車両がすっぽり入る、大きな屋根の赤茶けた整備工場のようなものがあって、その向こう側がどうなっているかは新京成に乗り換えるだけの人には知る由もありませんでした。

tudasanpo.jpg昭和50年ごろ、6年生になったワタクシ、冒険心で北習志野から歩いて津田沼まで来たことがありましたが、その時点でも現在の大型店はひとつもなかったように思います。

現在のみずほ信託銀行のあたりになるかと思いますが、「サンポー」という3階建てくらいのスーパー(雑貨屋?)がぽつんとあり、そこのトイレを拝借したあと、屋上のガチャガチャでスーパーボールを買ったことを憶えています。
船橋のシャポーと名前が似ていましたが、たぶん別物です。

昭和51年、中1のときに電気好きの友人と秋葉原に行った帰り、上りホームで電車待ちをしていました。振り返るとホームの背後はコンクリートの棒でできた柵で、その向こうは空き地でした。そこは後にイトーヨーカドー、さらには丸井が建つ場所で、あの大きな屋根の整備工場は消えてなくなっていました。

イオンがある側は、新京成の車両基地のようなものが建っていたと思いますが、記憶が定かではありません。
基地のようなものがなくなった後、駐車場になったり、屋内スキー場になったりしてからイオンができています。
そういえば踏み切りの脇にボウリング場(津田沼ファミリーレーン)がありましたね。
いまはマンションに建て替わっていますが・・。

あらためて現在の津田沼を見ると、我ながら古い人間だと実感します。


#記憶違いもあるかと思います。当時をご存知の方がご覧になられましたら、ぜひとも補足・訂正などコメントいただけますよう。m(__)m

タグ:歴史 津田沼

昔日の北習志野 その1

2008年11月1日

ワタクシ、小学1年生のときにこの街に引っ越してきました。
東京・杉並区のアパートから、昭和44年・・・1969年の終わりごろ。
習志野台団地の12街区に入居しました。

12街区は出来たばかり(おそらく習志野台団地では最後発の着工・完成かと)でぴかぴか、3街区だってぜんぜん綺麗でした。
12街区の南側は遠くが見渡せるほどの空き地で、マンションが立ち並ぶまでは、自衛隊の落下傘部隊の降下訓練がよく見られたものです。

当時の北習志野駅の外階段に屋根はなく、改札から出て左、定期券売り場の窓口を過ぎると、青空が広がる踊り場(東口)でした。正面の歩道橋はもちろんなく、両サイドの階段も含め、コンクリートの分厚い手すりがついていました。
その正面に見える3棟のマンションと階下の駅前商店街(現在のYELL(エール)商店街)は今とあまり変わらないいで立ちでしたが、その左手には「扇屋」と大きく書かれた看板が印象的なビルかありました。扇屋はずいぶん前になくなり、現在はマクドナルドや三井のリハウス、英会話のイーオン、パチンコ屋が入っています。
逆に右手を見ると、5階建てほどの高さの飛行場の管制塔のようなガラス張りの火の見やぐらが印象的な船橋東消防署がありました。いや、消防署はいまもあるのですが、火の見やぐらがなくなってしまいました。
耐震性や周辺の高層化に対応できなくなり、取り壊されたものと思われます。

s49_kitanara.jpg
昭和49年(1974年)の北習志野駅周辺 : 国土交通省国土計画局より
ロータリーの配置が今と異なり2つに分けられていた。


一方、西口は一戸建てや畑が中心で、ヒロセ電機の習志野研究所ぐらいしか目立つ建物はありませんでしたが、現在はマンションが立ち並び、すっかり宅地化されています。
西口から2分も歩くと崖があり、飯山満川の水源があります。小学生の頃、手ですくって飲んだことがありました。
当時は崖下の飯山満川沿いには延々と田んぼが広がっていましたが、ここもびっしり宅地化されています。
タグ:北習志野